東金御殿

 わずか二週間あまりで建造されたといわれる東金御殿ですが、やはり傷みが早く、九年後には修繕が行われ、11年後には大規模な増改築が行われていたようです。三代将軍家光は大納言のときに御殿に来訪していますが、寛永十四(1636)年に再び鷹狩りを計画、御殿は更に増改築されて将軍のお越しを待ちわびていたのですが、翌年の島原の乱によって来訪の機会を失い、その後当地を訪れることはありませんでした。

 「東金御殿古絵図」には下御台所、上御台所、坊主部屋、小姓長屋、物置、御休息、御書院、御広間、御花畠、遠侍、御老中部屋、鉄砲部屋、弓部屋、夜居、玄関、ほか十三部屋と別棟として御鷹部屋、長屋、馬屋、番所が配置されていますが、結局この状態で将軍が使用したかは定かではないようです。

 慶安三(1650)年、大奥の近江局(おおみのつぼね)に御殿の家主が変わります。近江局は寛永十八(1641)年、家光の側室であったお楽の方が家綱(のちの四代将軍)を出産した時に春日局直々に出迎えを受けて江戸城に入城。お楽の方お付きの乳母として大奥の第一歩を踏み出しました。
 そのわずか二年後に春日局が急逝、近江局はその後三十年近くの間にわたって大奥を取り仕切るようになるのです。近江局が東金御殿を拝領した翌年に家光が崩御、その十三回忌の年にあたる寛文三(1663)年、東金の日吉神社大祭が始められました。将軍家が信仰する山王社と同一神を祀る東金の山王社(日吉神社)のお祭りは、江戸の山王祭と同年に行われ、将軍家の国家鎮護を祈る祭礼であったとの見方もされています。明治に入って江戸の山王祭の巡行は取りやめになってしまいましたが、今でも東金では衣装や儀礼など江戸時代の格式ある仕来たりが残されています。
 近江局の亡くなった翌年、寛文十一(1671)年、福島藩の板倉氏が東金を拝領することになり東金御殿は取り壊され焼却されました。その際に一部が大網の小西壇林があった正法寺などに払い下げられました。大網白里町の正法寺には、いまも当時の建物が残されており、正面の獅子口などには徳川家の三つ葉葵の御紋を見ることができます。

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