東金(とうがね)という地名
その昔、鴇が群棲するこの地を「鴇が嶺」と呼んだことから「とうがね」という名称が使われ始めたといいます。当地の歴史が書かれた本を紐解くと八鶴湖畔、本漸寺の裏山付近にあったとされる酒井家、あるいはそれ以前の城を「鴇ヶ根城」「鴇ヶ嶺城」あるいは「東金城」とさまざまで根拠も曖昧な呼び方をしていますが、或いは、これ全て「とうがね城」と呼ん(読ん)でいたようにも思われます。
かつて千葉全域について記された房総紀要(明治44年)には『昔は辺田方と称せしが、大永年間酒井氏の城村となりて、今の名に改む』と、酒井定隆が居城の折に「東金」の地名が付いたと説明しています。一方で当地の名主が町人の身分や石高を記して幕府に提出したとされる東金城明細記(宝暦10年/1761年)には『村名の儀は往古より辺田方村と唱へ申候処慶長十九年甲寅御成の節より東金町と唱へ申候』とあり、将軍家康が御成の時に地名を改称したと記されているそうです。つまり、「とうがね城」のあった鴇ヶ嶺の城山に東金御殿ができた時に地名を「東金」としたということです。
なるほど、天正二十年(1592年)に家康が最福寺、本漸寺へ送った朱印状には当地を「辺田方郷」と記していたり、文禄三年(1594年)の検地縄入帳にも「辺田方村」の地名が書かれているそうです。雄蛇池旧記にも『御代官島田伊伯様御見立水下十ヶ村(山口、福俵、台方、辺田方、押堀、高畑、川場、堀上、大豆谷、田中)の用水に…』と書かれており、家康来訪以前の東金はみな「辺田方」と呼ばれているようです。
「辺田方(へたかた)」という地名はいまのJR東金駅周辺の上宿(かみじゅく)、谷(やつ)、岩崎(いわさき)、新宿(しんしゅく)辺りのことで、「へた」も「かた」も端っことか、隅っこという意味ですので、中世以前までは「端の端」と扱われていたようです。この「はずれのはずれ」の地名が時の将軍の御殿建立に合わせて「東金」とされたというのであれば合点がいくというものです。
※旧漢字は現代のものに直しています。