酒井家と東金城
八鶴湖畔の名刹本漸寺の墓地の左奥、一番高いところに上総酒井氏の祖、酒井定隆のお墓があります。定隆のもともとの出身は美濃国(岐阜県南部)の出身とも近江国(静岡県)ともいわれています。土気城を築城したのち1509年に養子隆敏とともに田間城(いまの田間神社の裏山付近)を築城、その数年後に本漸寺付近に東金城に引っ越しをしました。その後、酒井氏は土気系と東金系に分立し、東金は隆敏の子孫4代にわたり約100年ものあいだ城下町として栄えました。
その後戦国時代に突入し、勢力争いが激しくなる中で、東金・土気の両酒井家は曖昧な立ち位置で乱世を生き延びて来ました。第1次国府台合戦では両酒井氏は小田原の北条に属し、久留里城の戦いは土気城主酒井玄治は北条氏に、東金城主酒井敏房は里見勢に味方して出陣しています。
里見が勢力を伸ばして越後の上杉謙信と「房越同盟」を結ぶと、小田原の北条氏康は武田・今川と三国同盟を結んで勢力を誇示、第2次国府台合戦では北条・里見の直接対決となります。この戦いに土気酒井氏は北条方として出陣したが、のちに北条よ「不忠之仁」と疑われたので一変して里見氏と結んだといいます。二回目の国府台合戦において両酒井氏は里見・北条のいずれにつくのか決めかねて出陣が遅れてしまったことで、以後北条氏に目をつけられてしまい、執拗に侵攻されてついに降伏し北条の傘下に入ることになりました。
北条氏は酒井家を従えると一気に上総一帯を支配下におさめ、北条氏政は息子の千葉直重に千葉市の家督を継がせ、幼少の千葉重胤を人質に小田原城へ召し抱えました。上杉謙信が病に倒れ、武田を滅ぼした織田信長が暗殺され、信長の事業を継承した豊臣秀吉が天下統一へ向けて小田原征伐を行います。これによって北条氏がほろんだ1590年、東金酒井氏も終焉を迎え、城地を明け渡して落城します。
酒井の軍勢は、普段は農耕をして暮らしていて、東金は勿論、豊海・白子までいたる77か村に点在して生活していました。そして戦の時には本漸寺の鐘を合図に城へ詰めかけることになっていました。浅井長政による軍勢はわざと昼時に酒井軍を攻め立てます。このときも敵襲を知らせる鐘が鳴らされたのですが、野良仕事をしていた人々は昼の休憩の時を知らせる鐘と勘違いしてしまい、酒井軍は防ぎようもなく敗れてしまったのでした。(本漸寺ではこの苦い経験をきっかけに鐘を鳴らすのをやめたのだと伝えられています。)
城を追われた政辰は北之幸谷の妙徳寺に身を潜めましたが、その息子6代政成は徳川家康に召し出され旗本となりました。のちにその家康が東金城跡に宿泊場としての御殿を建てるのです。