東金御殿②

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 かつてこの周辺は湿地が多く、鶴や白鳥、鴾、雁、鷹が多く棲息していました。
 酒井氏の東金城落城ののち、家康の筆頭家臣である本多正信が駐屯し、当地は幕府直轄のお鷹場に指定されます。やがてそこに約6700坪の東金御殿が建つ訳ですが、わずか15日間という短い工期で、しかも秘密裏に建造されたと言われています。
 総指揮については土井利勝が、監督には嶋田治兵衛(重治、伊伯)あるいは小栗又兵衛(信友)が就いたと言われています。ご存知の通り治兵衛は御成新道、雄蛇ヶ池そして御殿前池(八鶴湖)の造成をしており、大阪冬の陣においては旗奉行を務めたという名代官でした。さらに設計指導には駿府政権の大工頭であった中井正清が就きました。正清は法隆寺大工を中核に畿内、近江六カ国の大工組と大鋸組をまとめて何千人という技術団を動員できる体制を持っており、江戸の街割り、二条城、江戸城、駿府城などを造営した人物です。

 こうして御殿建築は幕府直轄の工事で極秘に行われました。地元の郷土史研究家によれば、この東金御殿はただ単なる鷹狩りのための館というだけではなく、じきに始まる大阪城攻略に向けた重大な戦略があったという説があるのだそうです。
 大阪城は市街地を城の中に取り込み、本丸、二の丸、三の丸を幅広い濠や川、高い石垣で廻らせた難攻不落の城です。この城を攻めるためには、大阪城の周りに対城(ついじろ)を造り攻めの拠点を確保する必要があります。この対城は敵が間近に見える地勢優位な場所に一気に建てる必要があり、あらゆる工程を短時間で仕上げる技術集団を投入する必要がありました。そのためには前もって幾つもの手順を確認して慣れておくことが重要です。中井正清こそ大阪冬の陣において対城を建て、塹壕を掘り、土塁を築くなど、まさに一連の監督を行った人物なのです。御殿建設は鷹狩りの館として周囲の目を欺き、家康本陣設営の実践模擬を目的とした訓練だったのかも知れないという見方もあるのだそうです。
 家康はこの年の秋ごろから葛西、浦和、川越、岩槻、鴻巣、越谷などで精力的に鷹狩りを愉しんでいました。暮れも押し迫った頃、江戸から駿府へ向かう途中で鷹狩りをしていた家康に小田原城主大久保忠隣が謀反を企てているとの情報が入ります。すると、家康は突如として行く先を変えて「正月は東金辺で鷹狩りをする」と言い出します。

 翌年1月、家康は突貫工事で造らせた東金御殿へ向け江戸城を出発しました。一説には忠隣と親戚関係にある里見氏が小田原と館山を海路で行き来する関係も目障りだったのだとも言われており、東金来訪は諜報活動の一貫という見方もあるそうです。大阪城に攻入る前に寝首を掻かれては困る。小田原城は家康が東金で鷹狩りをした直後に取り壊しの沙汰が下され、秋の出陣直前に里見氏は国替えを命ぜられ館山城は破却されてしまいます。
1614年1月、家康の東金来訪は秀吉へ宣戦布告するわずか10ヶ月前の出来事だけに幾つもの謎と憶測に満ちているのです。

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