切られ与三郎

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 粋な黒塀 見越しの松に 
    仇名姿の洗い髪、
       死んだはずだよお富さん♪

 これは「切られ与三郎」で有名な歌舞伎「与話情浮名横櫛」のワンシーンを歌った昭和の流行歌の一節です。流行歌だけではなく「切られ与三郎」は市川雷蔵の主演による映画でも大ヒットし、半世紀前にこのお話が一世を風靡したことを物語っています。
 「切られ与三郎」の話は、嘉永六年(1850年)に長唄の大夫・四代目芳村伊三郎が体験した実話をもとに講談師乾坤坊良斎によって創作され、やがてこれが歌舞伎の脚本となって江戸中村座によって初演、八代目市川團十郎以降しばらく演目としては遠ざかっていたものの明治後期になって再びブレイクしたと言われています。
 与三郎が貸元の妾であったお富を見初めて恋仲になったことで、子分らから嬲り殺しの目に遭い、お富は入水を図る。奇跡的に命をとりとめた二人は数年後江戸でバッタリ会う、、、その前後の物語を含めると原作はとても長く、当初は十二幕もあったのだそうです。現在の歌舞伎では上演時間の都合もあって与三郎とお富が出会う序幕から二人が再会する三幕で終わります。落語でも歌舞伎でも映画でも、おおよそのストーリーは似通っているのですが、あまりに長い物語だからか細部でいろいろなアレンジがされたり塗り替えられたりしています。
 
 その「切られ与三郎の墓」(厳密には、物語のモデルになった四代目伊三郎の墓)が八鶴湖畔の安国山最福寺にあります。最福寺にある説明板では、大網清名幸谷の紺屋の中村家の次男として寛政12年(1800年)に生まれたとあり、名を中村大吉といったそうです。好きな長唄を習いに通った掛茶屋で茂原生まれのおきち(お富のモデル)と出会います。しかし、おきちには地元の親分山本源太左衛門という旦那がいました。二人の間柄はすぐに親分の知るところとなり、、、といった具合で描かれています。
 実際の大吉のその後の運命は歌舞伎とも落語とも違います。「東金町誌(志賀吾鄕著/昭和二年初版・十三年再版)」によれば、九死に一生を得た大吉は江戸で唄かたとなり巡業の際に二人は再会、大吉は32歳で伊三郎を襲名して一門の師道となります。四十四歳の時に芸道の恨みか水銀を盛られ天性の美声を失い引退、郷里である東金に戻ります。二人はその後東金・大網あたりを巡回し長唄の教師として三味線を教えます。最福寺観行坊霊帳には法號『勇猛院徳翁日遊信士』弘化四年(1847年)6月16日、48歳で亡くなったとあるそうです。
 実は木更津の光明寺、品川の天妙国寺にも「与三郎の墓」と呼ばれるものがあるそうですが、東金のお祭りのお囃子の独特なリズムは確かに伊三郎の長唄の流れを汲んでいると言われており、「与三郎の墓」は隠れた名所となっているのです。

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