大野伝兵衛
東金を代表するもう豪商と言えば、大野伝兵衛の名前があがります。
大野家は代々『伝兵衛』を名乗り、六代目の『伝兵衛』秀澄(1750〜1825)の時代に小児薬『一角丸』を製造販売し巨富を得ました。
その孫にあたる八代目『伝兵衛』秀頴(1830〜1876)は、27歳で東金領主だった陸奥福島藩主板倉家の御用金御用達頭取となりました。またその翌年、江戸でコレラが流行した際に家伝薬を無償で患者に施し、奉行より大金の褒美を受けました。そして31歳の時に所有の山林や畑二十町歩を開いて茶園経営をはじめるのです。製造方法は宇治に倣おうと男女30余名を呼び寄せて事業に従事させました。するとその茶が評判になり、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)より「東嘉園」という名まで賜りました。
商社を通じてアメリカにまで輸出されるようになった製茶事業はたくさんの雇用を生み、五色に染めた旗のぼりの色で組を分けて近所の農家や海岸の船方の奥さんらがお茶を摘む姿を『伝兵衛』は大好きな黒毛の馬に乗って見回ったのだそうです。宇治からやってきた男女工により茶摘唄の替え歌が伝わり、大勢の茶摘女たちによって唄われました。
♪宇治の新茶と大野の古茶が出逢いましたよ横浜え
馬が来た来た千両箱つけて大野どこだと尋ね来た
お茶の茶の茶の木の下でお茶も摘まずに色ばなし
揉めよもめもめ揉まなきゃならぬ揉めば茶となるお茶となる♪
♪東金よいとこ北西晴れて東山風そよそよと
お台所と川の瀬はいつまでどんどん続くだろ
ここの旦那は馬好きで黒毛変わる毛数知れず♪
36歳になった『伝兵衛』は「東嘉園」を他人に授けて、自らは桑園を開いて蚕業の発達を目指しましたが、明治9年に46歳の若さで病死しました。九代目『伝兵衛』には婿養子に来ていた佐藤尚中(蘭学医で東京順天堂の創始者)の次男、鉄次郎が襲名しました。『伝兵衛』は地元の名士として、稼業だけでなく郵便局長を務め、銀行も興しました。
今となってはかつての茶園は跡かたもなく、当時流行した労働歌を唄える人もいません。現在、有栖川親王直筆といわれる「東嘉園」の額と東金出身の画家飯田林齋が茶園全景を描いた「東嘉園画巻(全12枚)」が文化財として残されていて往時を偲ばせています。